髪の毛を切りに行ったら、育児参加や家族についてふと思った。

先日、ツイッターでもつぶやいたが、久々に髪の毛を切りにいってきた。

久々すぎて、前回髪の毛を切ったのが何ヶ月前か覚えていないほど。

以前はポイントカードがある千円カットのお店だったので、前回髪の毛を切った日が分かるのだが、今はポイントカードがないお店なので、日付が全くわからない。

おそらく3か月くらい前なんじゃないかと思ったのだが、切られて髪の毛の長さを見たら、もっと長い間切っていなかったのかもしれない。

毎日の子育てと仕事に忙殺されていると、こんなにも自分の身なりに関心がなくなるのだと驚いた。

目次

髪の毛が気づくとすごい伸びていた

以前は朝ドライヤーと寝ぐせ直しを使っても、思った通りにならなくなりはじめた時が切り時の判断材料だった。

だが、今回はそれがなかった。

気づくとやたら髪の毛が伸びていたのだ。

今年の1月から娘の寝る時間が遅くなり、ベビーベッド陥落後から持ち直しつつあった自分の時間が再び減少した。

その結果ブログの更新頻度が2月から惨憺たる結果となっているわけだが、だからと言ってここまで気づかないものだろうか。

髪の毛の伸びに気づかなかった要因

髪の毛が気づかなかった要因は、考えてみれば確かに多かった。

その結果、鏡の前にあまり立っていなかったもしくは立っていても自分の顔をみていなかったのだ。

・娘の寝る時間が遅かったので、歯磨きは娘と一緒に磨いていた。娘と歯磨きをすると、娘の歯磨き状況が気になり、自分はあまり鏡を見ていなかった。

・寝る時間が遅いので、娘の睡眠時間を長く確保するため60分程度起きる時間を遅らせた。その結果、朝は忙しくなるのであまり鏡を見ていなかった。

・土日祝のイベントが多かった。

<主なイベント>

1月:年始と成人の日により保育園に長期的に預けられなかった。祝日は仕事の為、実家に泊まることが多かった。実家に泊まると鏡をあまり見ない。

2月:1月後半からの娘の寝る時間が遅くなったのに伴い、平日の家事を土日に持ち越す量が増えた。結果、平日は仕事育児、土日は家事育児で自分を見る余裕がなかった。

3月:父の3回忌、祖母の葬儀に加え、1月~2月まで好調を維持していた娘の体調が悪かった。

身なりに気をつかえないのが正常なんじゃないか

前置きが長すぎた。本当に長いよ。

結局リンは何が言いたいのか。

髪の毛を切りに行って、ふと何を思ったのか。

思ったことは2つある。

1つ目は、子育て真最中のタイミングの妻(夫)に身なりの事言ったらダメなんじゃないかってこと。

そんなの当り前だろ。今更気づいたのかよと言われるかもしれない。

だが、千円カットに子どもを連れてきていたママさんを見て、父子家庭を1年続けてきたリンは、ふと思ったのだ。

子どもに手のかかるうちは、自分の身なりに気をつかえないのが正常なんじゃないか、と。

子育てのご飯にかかわることで代表的なことだけでも、

・(意図的ではなく)ご飯をこぼす

・(胃腸が発達していないため)嘔吐や下痢になりやすい

・(自分でフォークや箸を使いたがるようになると)時間がかかる

などが挙げられる。

これをそつなくこなせる人もいるだろうが、リンのように自分の食事時間や、床に散らかった食べこぼしや、嘔吐物などの処理をこなすとする。

すると、当然汚れても良い服装をするようになったり、楽な髪形になっていく。

食事だけではない。日常的な抱っこやおんぶに対応するため、動きやすい服や疲れにくい靴に切り替えていくのが合理的だろう。

そこで想像してほしい。

この合理的な対策に対して、子育てにあまり協力的でない夫(妻)から身なりの事を言われたらどういう反応になるか。

大半の人がカチンとくるのではないだろうか。

リンの周りにも、妻がおしゃれしなくなったとか、妻を女性として見れなくなったとかと言う知り合いがいる。

娘が生まれる前はそれがどういうことなのかがイマイチわからなかったが、今は分かる。

妻(夫)が子ども生まれてから、おしゃれをしなくなったのだとしたら、子育てにシフトできているということなのではないか。むしろそれを感じた側の気遣いや育児参加が足りていないのではないか、と。

同じことをすることが育児参加ではない

育児参加と言っても、夫婦に二人で同じことをすることが育児参加ではない。

確かに交代制にして子育てをするのも一つの方法であるが、取り組みやすいのは分業制の方だと感じる。

ふと思ったことの2つ目は育児参加は必ずしも子育てにかかわることに限らないということ。

例えば片方が子育て中心、片方が家事中心を担うことだって、双方が育児参加していると言えるのではないだろうか。

父子手帳にも書いてあるが、まったくそれぞれの担当に関わらないということではなく、子どもについては、かかりつけ医や子どもの好きなことを共有することも重要だとは思う。

だが、本質はそこじゃないと思うのだ。

家族が一番小さく身近な共同体であるならば、子育てについては同じベクトルを向いている方が良い。それにはいろんな子育ての形があっていい。

極論を言ってしまえば、片方の育児に対する寄与度のほとんどが収入面だけでも良いのだ。

子どもが人生で迷ったときに、夫(妻)だけに責任を押し付けたりしない、子どもの進路についてそれぞれの立場から親としてアドバイスができる状態、つまり同じベクトルを向いてさえいれば、それは育児参加における多様性であるとリンは考えている。

お父さんのようにはなるななど、片方をけなすような言葉が冗談でなく出てくるようなら、いくら夫婦で表面上の育児参加を進めていても良い状態ではないだろう。

最後に

子どもがまだ小さい場合、ひとり親だと髪の毛を切りに行くことすら、周囲の協力が必要だ。

今回はリン母が娘の世話を引き受けてくれたので、髪の毛を切りに行くことができた。

まず、そのことに感謝をしたい。

そしてその髪の毛を切りに行った先で、子どもを連れてきていたママさんと、リンの両脇でひたすらスマホを操作し続けていた若い男性と、年配の男性。

髪の毛を切ったあと、子どもの手を引くママさんともう一人の子どもを抱っこしながら、買い物の荷物を抱えたパパさん。

リンが見たそれぞれは断片的なスナップショットでしかない。

それらは単なる思考のトリガーでしかないが、髪の毛を切りに行って、ふと育児参加や家族について考えたので今回記事にしてみた。

子育ては自分のことがあまり気にならなくなり、それが普通なのかもしれない。

そして、家族の育児参加はいろんな形があっていい。

今回はここまでです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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