そもそも宿題って必要なの?

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生徒が宿題を忘れたことに対し激昂し、暴行した教師のニュースを見た。

暴行しなければならないほどの内容の宿題だったのかね?

記事の最初には暴行と表現されていたが、最後には体罰という言葉になっていてそれもなんだかなぁ。

体罰といじめは暴行や傷害、万引きは窃盗でしょ。

大人になって20年近くが経とうとしている今も、リンは宿題の必要性には疑問を持っている。

内容が授業の劣化版やコピーでは意味がないし、理解度に合わせた宿題を出し評価することはあまりに教師の負担が大きいと思うからである。

宿題は不要。

ただし、教科の評価と関連性が限りなくなくなるのであれば面白いのではないかというのがリンの考えである。

目次

宿題を忘れるとペナルティ?

この宿題という代物、宿題をやってこないとペナルティを受けるということや社会人になって期日を守る初歩的な訓練などと言われたりしているが、これに対して私はまったく理解できない。

なぜなら、そんなことは別に宿題じゃなくても教えられるし、ペナルティありきの理由付けは宿題の本質とは違うのではないだろうか。

飲酒運転の厳罰化というような、ペナルティをきつくしなければ減らないようなどうしようもないことならともかく、宿題にペナルティという言葉が出てくる事自体がおかしい。

プラスはあってもマイナスをつける必要はないんじゃないかと思うのである。

そもそも宿題を出す必要性があるか?

ここでそもそも宿題というものについて、必ずしも出す必要があるのかを考えてみたい。

まずその日にやった授業について考えさせるような宿題や記憶の定着をうながすような宿題は出す意味があるのかもしれない。

だが単純に授業そのままの内容、例えば練習問題だけのようなものは意味がないと私は考える。

なぜならそれは、単に授業の延長でしかないからだ。

練習問題だけであれば、できる子はできるし、できない子はできないままだ。

単に家で授業の続きをやっているだけで、まったく先を考えられていないものである。

では、先を考えるとはどういうことだろうか。

例えば、教科の評価とは関係ないところで子どもの成長を促してあげられるような宿題は先を考えられていることなのではないだろうか。

もしそれが難しいということならば、いっそ宿題なんか出さなければいい。

惰性の宿題が教師の業務を圧迫していないか?

学校の教師の業務について私はよく知っているとは言えないが、昨今、教師の時間外労働についても働き方改革の中でも言及されているところである。

確かに教師の業務というものは多岐に渡り、大変だろう。

冒頭にあった生徒が宿題を忘れたことに腹を立て、生徒に暴行するような性質の教師の場合、宿題を出すこと自体、教育とは逆効果である。

文部科学省が定める学習指導要領には、宿題は含まれていない。

教師は宿題を必ず出さなければいけないというわけでないのだから、子どもに暴行するような教師はわざわざ宿題なんか出さなければよい。

宿題が出ないことのメリット

・教師側

1.宿題を考える時間、チェックする時間の削減(業務量減)。

2.生徒の宿題提出管理が不要(業務量減)。

3.宿題をあまり出さない先生として、生徒から歓迎される。

・子ども側

1.放課後の時間を自由に使える。

放課後に何をし、何を考えて行動したかを読み取り指導していくの方が子どもにとって良いことのように思える。

遊びでもいいし、塾でもいいし、習い事でもいいし、家族と過ごしたでもいい。

学校で勉強しているのだから、学校外の時間まで勉強に縛る必要はないのだ。

勉強する子どもは、宿題を出さなくても勝手に勉強するし、勉強以外の事を勉強へフィードバックできることもある。

宿題を出すことでその後に控える教師の業務を圧迫しているのであれば、無理に宿題を出す必要などないだろう。

それでも宿題を出すなら

宿題イメージ

もし私が宿題をどうしても出すということするなら、授業の内容と関連のある別分野か教科とは関係ない分野を出してみたい。

それならば、体育のように宿題が出しずらい教科でも宿題を出すことができる。

例えば「早く走るにはどうやったら良いかを考えてくる」だったら子どもの興味をそそりそうだし、理系の内容も絡んでくるから面白そうだ。

宿題を提出したら一律1ポイントという風にし、答えが間違っていても1ポイント。

出さない場合はプラスもマイナスもしない。

なぜ一律なのかというと、社会人になっても会社の評価はそんなものだったりするからだ。

単純に出したか、出していないかである。

そしてこのポイントは教科の評価には使用せず、共通のポイントとする。

会社でも人事評価と成績評価は分けた方が公正な評価ができるから。

宿題はそういう会社で言えば人事評価にあたるところを評価するものにしたらいい。

友達とコミュニケーションができるとか、宿題を出す意欲があるかとか。

そんな簡単で社会で生きていく上で大切なものを伸ばしていくだけでいいのだと思う。

これならば勉強ができるできない以外のところで子どもを評価できる。

勉強は不得意だけど優しい子とか勉強はできるが友達を下に見て横暴な子とか、教科以外のところで数値化できるところは数値化して評価してあげればいい。

最後に

もし宿題を単なるその日の授業の延長や反復、社会訓練の一環であると思っている教師がいるとしたらすぐにでも宿題を出すのをやめてみてはどうだろうか?

確かにエビングハウスの忘却曲線に従えば、なるべく早く復習をした方が記憶の定着の助けになるかもしれない。

だがそれは授業の内容をある程度理解した子どもの助けにしかならないし、反復の方法を間違えれば特に効果もないものとなってしまう。

社会訓練に至っては、リンは宿題で得るものは少ないか全くないと思っている。

これは親や社会がやるべきことではないか。

宿題が必要なのかと聞かれたら、リンは必要ないと答えるだろう。

もしあえて宿題を出すならば、評価を一律にして教科の評価そのものとの関連性を限りなく薄くさせる。

あらさがしではなくて、子どもの良いところを一つでも多く発見してあげること。

それが宿題に秘められた可能性なのだと思う。

これは子どもだけでなく、教師の負担軽減のためにも思っていることである。

それに宿題以外でもっと有益なことがある。

そう。

放課後に友達と思いっきり遊ぶとかね。

今回はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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