保育園反対のニュースを見ると、保育園という施設を弱者にし、建設反対派を少ない情報で悪者のように扱っているメディアも中にはある。
短い報道時間で分かりやすく伝えることが、逆に誤解を生むこととなっているように思えてならない。
反対の周辺住民は計画地に隣接している道が狭いので、子どもが危険になるとか路上駐車が多くなることによって交通秩序が乱れるといった至極正論な意見もあるだけに、子どもがうるさいから反対という、わかりやすく批判の標的にできそうなワードだけが独り歩きしているのは如何なものかと思う。
父子家庭で小さい子どもを持つ親として普段の生活から思うことを、少し吐き出させていただきたい。
目次
小さい子を持つ親の立場から思うこと
保育園の送迎時に思う
保育園の送迎をしていて、思うこと。
娘の通っている保育園は道路に面しており、同じ道路上に民家がある。
保育園からの通信にも、定期的+アルファの頻度で、送迎時、民家の前に車を止めないでくださいという文言が入っている。
最初は実際にはいないけど、注意喚起の意味で乗せているのかと思ったら、実際に駐車している親と送迎が一緒の時間になった。
本当に民家の入り口に止める人がいるんだ。
それが率直な感想だった。
また、民家の前には車を止めなくても、それに加担している親もいる。
保育園の前には、バスでもない限り先に来た車が前よりに駐車すれば、2台目も確実に民家の入り口を塞がないで駐車できるほどのスペースがある。
それを、保育園の入り口に近く止めるため、2台止まれるスペースに1台しか駐車できない。
そうなると、その車の前に駐車するにしろ、後ろに駐車するにしろ保育園の敷地からはみ出して止めなくてはならない。
そういう車がいると、1台のみ保育園の前、3台が保育園でも民家でもないスペースに駐車するので、縦に長く送迎者が駐車していることになっていることもある。
前よりに止めたとしても、入り口から遠くなる距離はほんの数歩分だ。
その度に自分のことしか考えられないのかと情けなく思う。
民家の前に止めていないからと言って、何をしてもいいわけではない。
幸い、路上駐車しなければいけない立地にある保育園なので、立ち話をしている親は見かけたことがないが、こういったわがままな行為が子どもを預かってもらっている保育園の立場を弱くしている原因の1つであるということに気付いてほしい。
電車に乗っていて思う
電車に乗っていて、確かに子どもの声がうるさい時もある。
しかし、圧倒的にうるさいのは大人の話声だ。
他愛もない会話ならともかく、人の悪口や仕事の話など聞こえてきた日には不快指数は上昇するばかりである。
だからリンは電車に乗るとき、そういった大人を回避するためにグリーン車に乗る。
会社からグリーン車分の交通費は出ないけど、自腹で乗る。
まだ娘を電車に乗せて出かけたことはないが、騒いでも大丈夫な車を選ぶだろう。
そうは言っても子供の声は甲高く、うるさいじゃないかと反論があるかもしれない。
確かに子どもはうるさい。
娘もワーキャー騒ぐときもある。
だが、それはほとんどの人は分かっているのだと思う。
なぜ、そこで不快に思う人がいるのか。
それは親もしくは保護者の態度ではないだろうか。
子どもはうるさいものだから仕方がない。
これは周囲が子どもに思うことであって、親が周囲に対して思うことではない。
そうやって思考停止で開き直り、周囲に配慮しない親もしくは保護者に対して周りは不快に思うのだ。
周囲にぺこぺこする必要はないと思うが、少なくとも子どもが公共の場所で騒いだら、周りとの潤滑油として振舞うのが親であり保護者である。
その役割を放棄して、子どもと一緒になって自分たちの世界に入り込んでいるから、批判されるのだということに気付いてほしい。
子どもがうるさい時、リンはまず親を見るし、娘が騒いだ時もまず自分が見られているのだということを考えるようにしている。
自分が娘を好き勝手させ、周りへの配慮を欠いていれば、周りは完全に迷惑なものとしか見てくれないだろう。
子は親の鏡
接客業をやっていた経験から、それは間違いないと断言できる。
カチンとくる子どもは、親がそれ以上にひどい。
しっかりした子どもの親は、やはりしっかりしている。
誤用を承知で例えを挙げるが、普段は「お客様は神様」然とした態度で店員に接しているのに、他のお客様(神様)への対応を召使扱いしている店員にやらせるのは、決まってカチンとくる子どもの親だ。
普段は「本社に内容証明を送り付けるぞ」と偉そうな神様のくせに、他の神様の前では何もできないのだ。
リンからすれば、店に落ち度はないので、内容証明なんぞ何も怖くなかった。
結局口だけだったので、送ってくれれば内容次第では逆に恐喝の証拠として裁判できたのに。
接客業での経験は親になった今、反面教師として子育てにフィードバックさせて頂いている。
子どもがどう育つかは環境もあるが、やはり親もしくは保護者なのだということを。
まとめ
保育園建設反対、待機児童の問題、少子高齢化など子どもが関係する課題は連日のように報道されている。
子どもやその親が被害者の場合もあるが、むしろ加害者側にもなっているんじゃないかともこの年になり、1人の子の親になって思う。
わかりやすい文言に惑わされて、日本という国が子どもに寛容ではなくなったという風に錯覚させられているのもあるのかもしれない。
情報通信が発達した現在では、昔は全国的なニュースとはならなかったことまで発信される。
メディアがこぞって同じような事件を取り上げれば、昔より色々な事が悪くなったと感じる人がでてもおかしくない。
昔から子どもに対して寛容ではない人は一定数いただろう。少なくても今と変わらない程に。
それにリンは昔の子育て論よりも今の子育て論の方に共感する。
全ての人が子どもに寛容な社会というのは理想論だ。
いろんな人がいて、お互いさまでやっているのが現実なのだと思う。
そのお互いさまの心を忘れたとき、子どもはうるさいと思われてしまうのだろう。
子は親の鏡。
親として、忘れないように。
お互いさま。
娘が将来大人になったときに、自然に思える人間になれるように常日頃、心がけていこう。
今回はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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